Story

1980年代後半ー

 特に得意なモノやコトなど無かった大学生時代。一つだけ夢中になっていたコトがありました。輸入盤集めです。1980年代後半はインターネットもなく、海外の音楽情報はラジオ番組やアメリカやイギリスの音楽専門誌から見つけるしかありませんでした。そしてもう一つそんな情報を得るために入り浸っていたのが、TowerRecordです。輸入版専門店です。いち早く見つけたアーティストのレコードを大学の仲間に聴かせるのが楽しみでした。就職活動では広告会社のみを目指しました。他のマスコミも受ければいいものですが理由がありました。それは広告会社が企業と消費者をつなぐ役割をしていたからです。企業の商品やサービスの情報を消費者に届くように変換し、イベントやCM、テレビ番組を通して発信していく。これはどこか輸入盤を友人たちに紹介する事と似ている気がしました。運よく東京の広告会社に入社。大手コンピュータメーカーのチームに配属されました。博覧会や展示会をプロデュースだぜ!なんてのは100年早い話で、プランナーの作成した企画書のコピー、弁当の手配、客の接待要員、タクシー手配、原稿送りのランナー。たまに女の子と合コン。こんな感じで毎日深夜まで仕事をしてお酒を飲み、また朝から仕事の日々。俺って何をしたいんだっけ?と悩み始めます。もともと、映画が好きでした。『ニュー・シネマ・パラダイス』や『トレインスポッティング』が一世を風靡していました。1990年代の日本では映画業界でミニシアター・単館系という新しい興行形態が出て来ていました。もちろんインターネットはまだまだ普及はしていません。そんな時代に映画の目利き達が海外から映画を買い付けて来て、日本国内で流通させ、ヒットさせる。何か面白そうだと感じていました。時は松下電器(現パナソニック)やソニーがハリウッドの伝統的なスタジオを買収するというニュースが世の中を騒がせていました。

1990年代前半ー

そんなある日、前夜もボロボロになるまで仕事して、飲んで、やっと早朝家にたどり着いて、何気なく、某全国有名新聞朝刊を開いたら、求人欄にソニーが買収した映画会社が日本支社の立ち上げスタッフを募集している広告を発見!そう言えば、この会社どっかで?以前、ある業界誌でこの会社の社長になる方の記事が掲載されていてそれを読んでいました。その時は関係ないな、と思っていましたが。とりあえず、履歴書は送りました。3,000人近くの応募があったらしく、面接も気合の入った人ばかり。ダメだコリャと思いました。しかし何と、間違い?運命?ウソ!運よく合格!入社した頃は当時の親会社・ソニーグループの音楽会社から優秀なマネージャー達が送り込まれて来ていて、最高に刺激的で、多くの事を学びました。入社後はホームエンタテイメント部門の営業部に配属。当初は卸会社を通じてビデオショップに商品を販売していましたが、ソニー・ピクチャーズはそれを変えました。ショップとの直接契約に切り替えたのです。業界騒然です。ショップと卸会社からの風当たりも強く苦労しました。その頃の上司の言葉で今だに覚えてるのは、「三嶋、どうなの?」それだけですよ!社内ですれ違うたびに。何が??って思いますよ。
もう一つは「三嶋、それでお前どうしたいの?」たまりませんよ!毎回、毎回会議や立ち話で問われますから。しかし、自然とその言葉が今も自分に問われている気がします。仕事のスキルなんかより大事なことを教えてもらったと思います。営業を経たのち、マーケティング部へ異動。様々な企業とのタイアップを実現。企画・制作・宣伝に関わった作品は約10年間で100作品以上。そして映画会社には無い格闘技というジャンルで、当時、格闘技界のイノベーター・石井館長率いるK-1のビデオグラムの権利獲得を会社に提案し、新しい流通網の構築・商品化を実現。一年中、選手やスタッフと全国の試合会場を行脚しました。その後、映画部門に異動。

2000年代ー

映画部門に移ってからは地方の企業や団体とのタイアップを推し進めました。ハリウッド映画×地方企業というプロモーションは、難しい面もありましたが、地方から全国へ発信していくという醍醐味を学びました。
多くのタイアップをしてきた中でも印象に残ってるのは『スパイダーマン』×高知競馬場とのタイアップ。出走馬全てにスパイダーマンのマスクを着用してもらってのレース。当日の模様は多くのメディアで取り上げられました。そしてもう一つは、『スパイダーマン』×鹿児島の老舗納豆屋「しか屋」さんとの”糸引くうまさキャンペーン”売上にも貢献でき、お礼のお手紙まで頂きました。その手紙は今でも持っています。
その後、九州支社長として数多くの映画配給業務をマネジメント。2010年に独立。専門性の高い各分野のパートナーと映画・スポーツのPRを担当。独立4年目、日本でも海外の様に多様な映画観賞のスタイルを広めたいと思い、それが実現できるプロダクトを探していました。そして辿り着いたのがドイツの世界的野外スクリーンメーカー The AIRSCREEN Companyでした。何回もメールでやり取りをし、最後はスカイプによる面接でした。「Hiroshi,AIRSCREENでどうしたいの?」と聞かれました。どっかで聞いたセリフです。「日本で野外上映を広め、国内で最も信頼されるスクリーンメーカーにする事です。」と答えました。2015年、日本ではじめてドイツの世界的野外スクリーンメーカー The AIRSCREEN Companyとパートナー契約を結び、日本国内でのマーケティング活動を開始しました。
同年REDBULL白龍走にてアスリートアテンドやメディア誘致ほかPRサポート、2016年、ルイ・ヴィトン・アメリカズカップ・ワールドシリーズ福岡大会にてREDBULLPRサポート。2017年、REDBULLエアレース千葉のメディアキャラバンほかPRをサポート。2019年、福岡県大牟田市を舞台にした地方創生映画「いのちスケッチ」の全国宣伝プロデュースを始め、岐阜や大阪を舞台にした地方創生映画の製作宣伝などを担当。大阪では府庁舎にて吉村知事を迎え、映画製作記者発表を実施。中小企業経営者や飲食事業者などに実践的なブランディングを中心としたコンサルティングも行なう。


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